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  平和の灯「こころ」 kokoro

PeaceWalkがずっと運んできた火は、もともと広島の原爆の残り火でした。破壊の火であったものが、愛の火に変容させたのは、祈りの力でした。この同じ力が、21世紀を調和の世紀に変える、と信じています。

■ 平和の灯「こころ」とは?
■ OPEN JAPANについて
  ■ 2001/12/31 「こころ」が長崎の誓いの灯と合わせられる
■ 2000/ 12/10 「こころ」の灯が広島に里帰り
■ 2000/ 10/13 出発地点での「こころ」の分灯
 


1945年8月6日 午前8時15分
上空580mで炸裂した熱が 
一瞬にして広島の街を炎でつつみました
その後 福岡県の男性が広島に入り 
この日の記憶を後世に伝えようと
焼けた街から カイロに火を移して持ち帰りました
55 年が過ぎた今 
この時の火が長野県松本市の神宮寺に灯されています
私は この火に "こころ" という名をつけました
"こころ"を伝える地を求めて私は歩きます
21世紀へのカウントダウン 
その夜に日本中のそして世界中の街で "こころ" の火が灯りますように
この火に "こころ" という名をつけました 。 
(山田和尚こと、バウ)





そもそも、それは、原爆の残り火でした。

この火は、山本達雄さん(福岡県星野村在住)が被曝して亡くなったた叔父の形見として、原爆が落ちたおよそ1ヶ月後に、広島の焼け跡の防空壕の中でくすぶっていた火から、カイロで持ち帰ったものです。採火した数日後には、広島に大水が出たといいますから、最後の火も水に呑まれたに違いありません。慕っていた叔父を殺した憎い"恨みの火"は、山本さんのおばあさん(叔父のお母さん)にとっては、息子を偲ぶただひとつのものでした。おばあさんは亡くなるまでの12年間、その火を朝夕仏壇に灯し続け、その火を守る役目は山本さんに引き継がれました。そうやって長い年月、絶やさず守られるうちに"恨みの火"はやがて"愛の火"となったのです。1968年、この火は星野村の「平和の塔」に永久保存され、88年、平和を祈るシンボルとして全国に分燈されていきました。


山田和尚がこの火を"こころ"と名付けました。

98年には長野県神宮寺にも灯りました。2000年3月、この火の話を聞いたボランティア団体「神戸元気村」代表の山田和尚(通称バウさん)は、神宮寺より分燈を受けました。「21世紀を平和の世紀にしたい。戦争を起こすのも平和を願うのも、人間のこころ次第」との思いから、バウさんはこの火を"こころ"と名付け、20世紀最後の日に全国でこの火を灯して平和を祈れるよう、WALKか、自転車、カヌーに乗って、日本全国47都道府県各地に分燈をしてきました。



バウさんの“こころ”の分燈の旅



出発地:長野県松本市浅間温泉神宮寺
日本列島を無限大(∞)の字にまわりました



12月末までの移動距離

歩き  1291.6Km
カヌー 97.1Km
自転車 2286.3Km
車   138.9Km
電車  1959.4Km
船   584Km

合計  6357.3Km