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  2002 Hiroshima Flame Walk

2002年、「広島原爆の火」ピースウォーク in U.S.Aでは、世界各地の人々が集まって、戦争と破壊を終結させるための希望の祈りを携えて歩きます。人々が対立して戦い合うのではなく、全ての命と共に調和の中で生きることができるよう願い、歩きます。

■ アメリカでの"広島の灯WALK"
■ スケジュール 2002.1.15 - 5.12
  ■ 2002 Hiroshima Flame Walk in U.S - ENGLISH -
■ Walk schedule 2002.1.15 - 5.12
- ENGLISH -

デイリーレポート(現在作成中、一部写真のみ掲載。黄色の日付のみ閲覧可能です)
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昨夜のヤキマ・インディアン・ネイション・ロング・ハウスにおける格別の歓待セレモニーと夕食に続き、早朝の食事サービスをいただき感謝しつつ「ハン・フォード・ニュークリア・リザベーション」のある街リッチ・ランドへ車で移動する。リッチ・ランドの街角からシャロ−ム・ユナイテッド教会まで小一時間行進して10時に到着。平和活動と核問題にストレートに立ち向かっている教会である。いくつかのメディアのレポーターの動きにも熱意が感じられる。

セレモニーと昼食の後、昼から12マイル(20キロ程)4時間の行進にはいる。
目的地は「ハン・フォード・ニュークリア・リザベイション」のゲートだ。
1月15日(火)シアトル地区のスクワミシュ・リザベーションにある「チーフ・シアトル」の墓前にて120名余りの人々と出発式をして(「マーチン・ルーサー・キング牧師」の誕生日)、本日の「マハトマ・ガンジー翁」の追悼記念日をめざして二週間を歩いてきた行進団のひと区切りになる日である。いわばワシントン州ウォークの最終日だ。

ハンホード・ニュークリアリザベーションの前にて祈るウォーカー。一番手前の緑のジャンバー & 帽子姿の方が、ワシントン州で大変お世話になった幸島さん。幸島さんは2000年のビックマウンテンに参加され、2001年12月8日パールハーバー60周年断食にも参加なされた方。多岐にわたり平和活動をされてる。 ハンホード・ニュークリアリザベーションの正門。この前で祈りを行う。

最初の核実験(1945年7月)が行われたニューメキシコの「トリニティ」(キリスト教で三位一体の意)広島に続いて長崎に落とされた『プルトニウム』爆弾はこの「ハン・フォード」で抽出されたものだ。最大かつ最初のプルトニウム工場が稼動はじめたのは1941年の「パールハーバ急襲」の翌年のマンハッタン計画による。本来地球上に存在しないエネルギー物質の名は「プルトン(冥界の王)」からきている。広島に原爆が投下されたときガンジー翁は「ついに私の最も恐れていたことがついにおきた」と絶句された。

そして核物質の汚染は今もなお「ハン・フォード」の地域一帯から大河コロンビア川を含めて母なる大地とその水を犯している。寒風の半砂漠の丘陵地帯を太鼓と祈りの声は歩いた。巨大な造形物の前での30数名の祈りは生きとし生けるものへの「いやし」を直接うったえる波動であった。

夕方となり街のケネウィック市にある「Unitarian Universalist (コミュニティ・ユニタリアン・ユニバーサリスト教会」へライドのサービスをもってポトラック・ディナーとセレモニーへ向かう。ここもストレートに平和活動を展開している、この地域で最も古い教会である。9時近くシャローム・ユナイテッド教会へ戻った一同はこの行進では、はじめての「パイプ・セレモニー」をトム・ダストゥさんのリードのもとにもった。ここまで共に歩いてきたワシントン州のコーディネイターであるデビットさんとその生徒さんたち(コミュニティ・スクール)、ビックス神父そして小生が行進から離れることも含めてのサークルであった。

「我々は『広島の火』に伴って歩いていくのだ」というトムさんの祈りに改めてズシンと心に響くものがあった。ニューヨーク。まだ先は長い。ここで離れる我々の祈りも共に「火」と共に歩いてゆくのだ。『広島の火』は毎日行く先々の街でメディアのレポートを受け好意的に報道されているようだ。それが直に伝わってくる。

先日の「ジョン・バーチ・ソサイエティ」の不審な動きは別にして…多くの人々は今こそ平和を望んでいる。9/11テロとアフガン攻撃を後にして心が揺れ動いているのが良心的アメリカ人の一般であるアメリカの軍事産業の方向と同居できない現実にアメリカ内部から気付くことが大事な時となっているのだがその時間はいつまで残されているのだろうか。アイヌ民族の言葉「ぺシュ」(池に投げられた小石の波紋の打ち寄せ)を信じたい。
信じねばならない時だから。

幸島満佳(Mituyoshi Kohjima) 

(注)ジョン・バーチ・ソサイエティ
1950年代辺りから存在する。人種差別グループで南部を主な活動拠点とする。
レッドネック、(白人労働者で暮らしは豊かではない)が支える。
この日、彼らの車とみられる不審な車が Walk erの周りを徘徊していた。
ちなみに、ブッシュ大統領は彼らの多くが住む南部の富豪の出身である。
 
"ワシントン、オレゴン州の現状報告"
1945年、ヒロシマに投下された原爆の残り火は形を変えながら、これまでの57年間、山本達男さんと星野村によって、平和の火として灯され続けてきました。

このヒロシマの火のエピソードは、ここアメリカに来ても広く人々の関心を集め、人々の心に火を灯そうとしているようです。

今回のインターフェイスピースウォーク(諸宗教平和行進)のターゲットが核と核に関係する軍事施設の巡礼ということもあり、この行進には様々な人々が様々な形で関係しており、ウォーカーの中だけでも、黒人、アメリカ原住民、黄色人、白人、仏教徒、イスラム教徒、ユダヤ、キリスト教諸派など、それぞれが日々向かい合っている問題や宗教を越えて集まってきており、互いに学び助け合いながら、日々歩く事を通して、一つの家族のようにつながり合ってきています。

また、訪ねる先々で出会う方々の姿も多様で、草の根運動のグループ、平和活動家、核やスターウォーズの危険を叫ぶ技術者、軍事関係者、先住民の人々など、幅広く関係しています。

さて、行進団はこれまで、ワシントン、オレゴン、カリフォルニア、コロラドと4つの州を移動してきましたが、ワシントン、オレゴンの2州ではほぼ連日が雨か曇りのぐずついた天気の下でのウォークとなりました。しかしながら、両州ともに、オーガナイズがしっかりとしており、スクワミッシュ、ピュアロップ、ニスクァリー、ヤキマ等の先住民社会との連絡もスムーズに行われ、これまでにリザベーション内にていったいどのような事が米国によってなされてきたのか、生きた声に耳を傾けることもでき、ウォーカー達にとって意義深い日々でもありました。

約150人が集まった1月15日(マーチンルーサーキング牧師の日)、チーフシアトル墓前でのセレモニーの後、同じベーンブリッジ島にある西海岸最大のサブマリンベースへと進み、祈りの巡礼は始まりました。

ここでは常に原子力潜水艦が実践に向けて配備されており、全米で最大級の核ミサイル貯蔵施設がある(えひめ丸にぶつかった原潜はここの所属らしい)ワシントン州にはこの他にも多くの軍事施設と軍需産業の拠点があり、シアトル郊外のレントンには、ロッキードマーティン社とならんでスターウォーズ計画の中心的存在となるボーイング社の本拠地があり、街全体がその関連の工業団地のようになっている。(冷戦後の核燃料搭載の軍事衛星による宇宙空間の単独的支配を目的とする)また、州南部のコロンビア川沿いにはハンフォード基地があり、ここでは長崎投下のプルトニウム爆弾ファットマンのプルトニウムが抽出されており、日本人との因縁も深い。また現在でも演習場内で劣化ウラン弾の実験使用等がなされており、その放射能とダンピングによる放射性液体廃棄物の地下水とコロンビア川への汚染は深刻なもので、となりにある兵器処分場からの影響とあわせて、地元のヤキマ族等インディアンの人々からは、かなりの被爆者も出ている。

これらの事実は、日本はおろかアメリカ国内でもほとんど知られていないのが現状のようです。

WA. OR.では、特に大きな事故等もなく無事に皆歩き通すことができました。今回はヒロシマの火の巡礼ということでアメリカ国内を歩いていますが、外国を通して自分達の住む国のことがよく見えてくるというのも、全くその通りで、米国が先住民その他マイノリティに対して行っている政策と戦争に対して取り組む姿勢、また、それらを支えている資本と構造は日本にもそのままあてはまり、日本が外国に対してとっている対応と地球環境に対して取っている態度は、いつまでも続けていくべき行為ではないと強く感じます。私たちはこれらの事実をこの時こそもっとよく知ろうとし、また、歩む道を問う時でもあると思います。

"ALL MY RELATIONS"

中野信吾