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  2002 Hiroshima Flame Walk

2002年、「広島原爆の火」ピースウォーク in U.S.Aでは、世界各地の人々が集まって、戦争と破壊を終結させるための希望の祈りを携えて歩きます。人々が対立して戦い合うのではなく、全ての命と共に調和の中で生きることができるよう願い、歩きます。

■ アメリカでの"広島の灯WALK"
■ スケジュール 2002.1.15 - 5.12
  ■ 2002 Hiroshima Flame Walk in U.S - ENGLISH -
■ Walk schedule 2002.1.15 - 5.12
- ENGLISH -

デイリーレポート(現在作成中、一部写真のみ掲載。黄色の日付のみ閲覧可能です)
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0304*

ニューメキシコから 5度乗り替えと30時間の乗車をへて、アラバマ州ハンスビルに最初の組が着いたのは16時すぎ、最終組は、いろいろなトラブルから、ヒッチハイクで翌朝5時に着く事になった。とにかく無事に、このバス移動は終了し、又当然ながら5日は、休息日となった。この4日の夕方には、ハンスビルの中心にある公園にて、短いセレモニーが行われ、その後コミュニティセンターに場所を移して「ポートラックパーティ」が開かれた。その公園のほとりには 桜が並び植えられ、赤く塗られた日本橋がかかっている。その橋、1980年代、自衛隊がこの地で、アメリカ軍と共同演習を行い、その記念に、企業も賛助して、この橋がつくられたとある。複雑な心地ながら、その橋のたもとで、私たちは非暴力をもってつくりあげるピースフルな世界が到来することを祈った。

ハンスビルには、宇宙関連の企業が集まり、日本企業も続々と進出しているという。集まってくる人の中に日本人の顔が多い。この日の集会について、翌日のハンスビルタイムスは一面に大きな写真とともに記事も載せていた。「…100人近く集まり、ポートラックのお皿は42枚で、約20パウンドの豆腐が使われた…」と、今までにない不思議な内容で半分が占められていた。しかし南部の保守的な土地柄で、この手の運動が一面に載ることが、非常にめずらしいことであると聞いた。一面を分けたもう一つの記事はやはりアフガニスタン関連であった。新聞が不思議な内容になってしまうほど、今回の日本人コミュニティのまとまりは人々を驚かせるものだったのかもしれない。その内容、量、反応の速さ、等。実際集まった日本人の方々の顔が、嬉々としていたのが印象的であった。ほんの数日前に日本人が歩いてくるという情報を得、とにかく日本食でもてなそうと、一気に連絡が走ったそうだ。そして今まで小さな個々の集まりはあっても、こんに一度に皆が集まったのは初めてであると、「私たちの方からこんな機会を与えてくれて、有難うと言いたい。」…とまで言って下さり、ころも広島フレームの人を呼ぶパワーなのかもしれない。

もちろん日本人以外の方々の対応も暖かく、実際、本日のホストファミリーの方々には非常にお世話になり、サウスホスピタリティを体験した。

皆がそろわない為、宇宙関連企業が集まることで、人口が増え、活気がでて潤っているハンスビルの街に私たちピースウォーカーは2泊することになった。

GEKO