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12/31 20世紀最後の祈り
1/1 21世紀夜明けの祈り
東京から広島へ。1日20-25キロの行程を歩いているWALKの「巡礼日誌」です。
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備前→岡山(約28km)
匠を早めに保育園に迎えに行き、日の出のよしこさんと、新幹線に乗って岡山にいるWALKに合流する。みんなが1ヶ月以上もかかって歩いてきた道のりが、たったの3時間。そのことが不自然に思えます。宿に着いたのは7時半すぎ、みんな夕飯を食べ終わってアキーニの誕生日を祝ったりしてくつろいでいました。
宿へ訪ねてきてくださった長崎の被爆者の方が、話されたことを書きます。
原爆が落ちたときに私は小学校の6年生で、長崎の隣の島にいた。まず、ものすごい光が来て、つぎの瞬間、体験したことのない熱さ。次にドーンという大きな音が響いて、地面が揺れた。そばに連れていた犬が、離れた木のところまで吹き飛ばされた。何が起きたのか分からなかった。島の高いところにいたので、市内が遠く見えた。真昼なのに、町全体が真っ赤に見えた。とにかく大変なことが起きたんだ、というのは分かった。
数日後、母といっしょに、市内に住む祖母を探しに行った。町全体がなくなっていた。いたるところに黒焦げになっている人の山。男か女かも分からない。腐って、ウジがわきはじめていた。本当に悲惨なありさまで、ショックで一週間ぐらい、食べものが喉を通らなかった。かろうじて残っていた浦上の天主堂の外階段に、人の影だけが焼きつけられていた。その人は亡くなったに違いない。川のそばには死体が余計多かった。みんな水を求めて、川に殺到したからだ。あの長崎の光景は一生忘れられない。 私自身は、ずっと元気に暮らしてきたのだけれど、2年前になって、急に白血球の数値があがってきて、原爆の二次感染と診断された。普通の人だと3000から4000という値なのが、35万、45万にまでなった。これは生存不可能な数値だという。急遽、岡山の県立病院に入院。妻は2、3日しかもたないから、葬式の用意をするように、とまで言われた。半年間、点滴だけで暮らし、状態は回復。白血球の値は相変わらずだが、生きている。
今では、健康食品による代替医療と、二日にいっぺんの病院での検査とを併用して、なんとか生きのびている。死なんぞ、という気持ちが強いのも確かだけれど、それ以上に、これは生かされているいのちなのだ、と実感している。今は、DNAセラミックという、水の性質をよい波動に変えるための技術を開発する仕事をしている。まだ今の科学では説明できないことだが、効果はある。せっかく生かされているいのちなのだから、人の本当の役に立つことのために、使いたい。そう思うようになっている。
小学校6年生で被爆。その影響が今になって出てくるなんて・・・急性障害でなく、何年も経って原爆の放射線を浴びたことがガン的な症状を引き起こすことがあるんですね。スティーブさんが翻訳にかかわった広島記念資料館が発行しているパンフレットにも、そんな表が出ていました。骨髄ガンなどは、1980年代になってはじめて発症しているとか。戦後戦後、というけれど、その傷はまだまだ続いているんですね・・。知り合いの息子で、胎内被爆していた子供が、成人後に急性白血病で最近亡くなった、ということも話されていました。
その時にそこにあるいのちを破壊するだけで済まない、世代を越えた被害をもたらす原爆のおそろしさ。そのことを反省しても謝罪しても、被害は延々と続く・・・まさに今も続いている。そんなとり返しのつかないことが二度と起きませんように。お話を聞いて、ますます強く、そう思いました。
戦争はもちろんのこと、戦争でなくても、チェルノブイリや東海村のような事故で被爆する人もいます。そういうことがけっして起きないような世の中を希望すること、それしかm私たちの代わりに被爆された方への謝罪とか恩返しってありえなんじゃないか、と思いました。ちょっとずつでもいいから、こうやって被爆者の人の話を聞くことがあれば、被爆体験そのままを受け取ることはできなくても、片鱗だけでもリアリティをもって感じられれば、この祈りは広がっていくんじゃないかな、と思いました。まずは知ること、共感することから。
(ヨハナ)
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