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東京から広島へ。1日20-25キロの行程を歩いているWALKの「巡礼日誌」です。
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レストデイ  
 
海田町営キャンプ場の神社からは広島の街の方が見える。55年前の原爆投下の瞬間をこの山々は見ていたんだろうな。12/3、広島県内を歩いている時、おんぶしていた実杜(みと)に「ねていいよ」と言うと、実杜は「あのネ、ねると死んじゃうから、ねむれないの。」 どういうことかたずねると「実杜と母ちゃんとうちの人は逃げたけど、あとの一人とみーんな死んじゃった。その人は家で死んじゃった。ボロボロになっちゃった。あのね、赤いボールが落ちてみーんな死んじゃった。ボロボロになっちゃったの。だからねむれないんだ」と言った。ピースウォークの大人たちの話や資料を思い出しているのだろうか。

海田町営キャンプ場

私は平塚(神奈川県)から歩き始めた。子供たちは京都で合流、それ以来ウォークの人、サポートの人、行く先々の地元の人たちは、子供たちを自分の子のようにかわいがってくれた。母として恥ずかしい話だけれど、今日になってはじめていろんな人が4才の実杜のおしっこやうんちにつきあってくれたのを知った。誰かれかまわず近くの人にお願いする実杜も実杜だが、「いつうんちしてんのかなー」とは思いながら、今日までみんなに甘えていた母も母でした。みんなありがとう。

12/2、広島県内をウォーク中の8才の素也とこんな話をした。
素也「天気で決まっちゃうなんてすごいよネ。晴れたから広島に落としたんでしょ。原爆が落ちた日、誕生日だった人いるのかな。」
母「生まれてすぐ死んだ子や、お母さんのおなかの中で生まれずに死んだ子もいっぱいいたんだろうね」
素也「うちのおばあちゃんも空襲で死ぬところだったんでしょ。おばあちゃんが死んだら僕も生まれてこなかったんだなぁ。生まれてよかった。」

今、広島県内に入ったところで出会ったおじさんのことを思い出している。ピースウォークのちらしを渡すとおじさんは「55年前のことはもういいよ」と言った。私は「自分の子どもにいい空気を残したいし、身体にいい食べ物を作りたいし、子どもたちの未来が希望のあるものであってほしい。」というと、おじさんは「ここの空気はきれいだよ」といった。私は目の前に見える山や川や空を見て、「あー、そうですね。本当にいいところですね。」と言った。おじさんは「じゃ、ごくろうさん」と言って、角をまがっていった。

明日、平和記念公園まで歩く。半月の下でそのおじさんのことを思い出した。広島の人々は55年間祈りの中を一日一日、一歩一歩生活してきたんだなぁ。広島の人々の心はもう澄んだ空気のように美しいんだなぁと思った。

明日、生まれてはじめて平和公園に入ります。原爆の痛みを知らない私や子どもたちは、広島の人々の祈りの大地の上を歩かせていただきます。広島の人々の祈りを感じながら、日本の人々の祈りを感じながら、世界の人々の祈りを感じながら、宇宙の祈りを感じながら。そしてそこに運ぶのは、ありのままの自分と二人の子どもたち。子どもたちと一緒に広島の人々の祈りの中を歩くことのできることに感謝したい。ここまでささえてくれたたくさんの人たち、今ここにみちびいてくれたグレイトスピリットにありがとう。

(のらやのかーちゃん、三枝子)
 
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